飛騨地方について

飛騨の匠(たくみ)のはじまりについて 天生(あもう)のおはなし

深い山に囲まれた岐阜県飛騨地方では、昔から木工技術、木造建築技術が非常に高いことが有名でした。西暦645年から始まったとされる「大化の改新」により、農民には米や特産物を納めたり、または一定期間の労働を義務付ける「租庸調」という制度が出来ました。その際、飛騨の国には、木工技術者の都への派遣を要請されました。その技術者たちは、すの見事な腕前から尊敬の意を込めて「飛騨の匠」と呼ばれるようになりました。

 

日本中で名高い飛騨の匠ですが、始まりについては以下のような昔ばなしが残っています。

 

天生(あもう)のおはなし

昔、峠を東に下ったところに小さい村がありました。ある夜そこに住む娘が家の前を流れる小鳥川に移った月影を、手ですくいあげて飲んでみました。すると娘は子供をみごもり、やがて男の子を生んだそうです。

これを聞いた村人は小鳥川の橋の上に行ってみたところ、空に月があるのに水面には月影が映っていなかったことに驚きました。皆はやはり月が娘に子を与えたのだと思い、このあたりの地名を「月ケ瀬」や天から生まれた子、という意味で「天生(あもう)」と名付けました。

 

飛騨の匠の誕生

生まれた子は鳥のような首をしていたので、村人から鳥(とり)と呼ばれました。鳥は類まれなる器用な指先を持ち、峠近くの山中で木彫りの人形を作って入魂し、産地を開墾させ稲作をはじめました。あっという間に多くの穂が垂れ、脱穀した籾糠が積もって大きな山になるほどだったそうです。それが現在の籾糠山(もみぬかやま 標高1744m)です。

その後、鳥は大人になって優れた技術を買われ、大和の都(今の奈良県)に呼ばれます。そこで様々な神社仏閣の建築に携わり、のちに法隆寺の「釈迦三尊像」や飛鳥寺に日本最古の大仏と伝わる「飛鳥大仏」をつくりました。この人物こそが日本史の教科書にも登場する鞍作鳥(くらつくりのとり)です。別名「止利仏師(とりぶつし)」であり、飛騨の匠の元祖だといわれています。

 

日本自然発酵が作る製品に「天生(あもう)酵素」があります。これは飛騨の匠にあやかり「最高峰の発酵食品」を作り全国に届けたい、という思いを込めています。

 

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写真:天生(あもう)湿原の中心地、お堂のある場所に伝わる鳥の居住跡